Wednesday, April 9, 2014

2050年、トーキョーまで120km

山あいの道を抜けると、大きな通りにぶつかり町らしきところに出た。

ひろびろと開けた平野には、何件かの家が建っているが、ほとんどはもう人が住んでいないらしい。

手入れするもののいない庭はあっというまに荒れ果てて、まるで森のように雑草が茂っている。

道の向こう側、数百メートル遠くに、大きな建物が見える。
近づいてみると、かすれた文字で、看板には「イ・オ・ン」と読める。
数十年前からある大型モールだ。

いまでも営業はしているらしく、何人かが建物に出入りする姿が見えた。

みな老人ばかりだ。でもかろうじて人の生活が感じられる。ここが町の中心だろうか。

道路標識には、、、「東京まで120km」の文字が。

イオンの裏側は駅になっていた。駅といってもとうに電車は廃線になっていて、今は、長距離バスのターミナルになっている。駅舎を改造した大きな待合室が、以前はこの駅も急行が止まる、大きな駅だったことを物語っている。

バスの時刻表を見てみた。いまでは、東京行きは一日に一便あるかないかのようだ。

いまは2050年。私はこうして日本を旅している写真家だ。

2000年代に入り、日本は世界でも類をみない高齢化社会となり、その傾向に歯止めはかからなかった。

いまでは人口の7割が高齢者となっている。

東京や大阪等の一部の都市部を除けば、ほとんどの町で9割以上が高齢者の町となり、人口は著しく減少し、いまや日本はそこらじゅうゴーストタウンばかりである。

2014年頃、日本でも高齢化の進む社会に対して、移民を積極的に入れるべき、という話が持ち上がったが、いたるところで、移民排斥運動が起き、結局日本社会においては、外国人の同化は不可能だという判断になった。

また、東京湾を一部埋め立て、移民を受け入れ、公用語を英語とし、ITと金融特区としよう、という「第二東京プロジェクト」、も一時盛り上がったのだが、結局ことなかれ主義の多い、日本の政府機関にそのような大胆な施策をとれるはずもなく、その話も立ち消えになってしまった。

結局日本が選んだのは、江戸時代に日本がとった政策、「鎖国」だった。

国の門戸を閉じ、緩やかに経済活動を縮小していく、言い換えれば、日本は国として、「静かな死」を選んだのだ。

それが良かったか悪かったかは私にはわからない。

積極的に移民を入れてきたロンドンや、ニューヨークはいまや、移民が9割を越す町となり、経済的には中心では有るが、治安は、最悪の水準となり、元いた住民の大半は外へ引っ越していった。

パリやベルリンはイスラム教徒の町となり、古くからの教会は順にとり壊されモスクへと変わった。
反面、「鎖国」をおこなった日本はどうなったか。

今では、国土の半分以上が無人の地域だと言われる。
私は、日系シンガポール移民の息子として、2020年に生まれた。日本は両親にとっての故郷であり、私にとっても子供の頃から、ずっと話しを聞かされていた第二の故郷である。

「24時間営業のコンビニエンスストアが町のそこかしこを明るくてらし続ける町」

「ロンドンや、ニューヨークと並ぶ、大都会・東京」

ずっとそんな話を聞かされていた。しかし、初めて足を踏み入れた「日本」の姿は、私の抱いていた想像とはあまりにかけ離れていた。

かつて機械や自動車で世界を牽引した国とは思えないほど、産業は衰退し、人々は貧しく、素朴な生活をしている。

そうした町を今こうして旅している。

しかし、街角には小さな稲荷と赤い鳥居が残り、ひなびた日本家屋の町並みはいまだに古来の美しい風情を残している。人の手が入らなくなった、山林地区は一層豊かに森が茂り、鹿や猿等の動物はどんどん増え、無人となった町は少しずつ自然に帰っていく。

豊さとはなんだったか、そんなことを思いながら、わたしはこの旅を続けている。

夕方になり、誰もいない駅舎跡が美しく赤く染まる。ずいぶん遠くへ来た気がする。ここは東京までわずか120キロの町なのに。

かつてにぎやかな団地だったであろう廃墟の公園の前を通りかかった。

ふと子供の笑い声が聞こえたような気がして、振り向いたが、そこには誰もいなかった。

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